黒澤映画 「生きる」
- 藤井 浩行
- 2020年4月16日
- 読了時間: 3分
黒澤明監督の13作目「生きる」を観ました。
大の仲良しの友人に車に乗せてもらった時、そこにあった「生きる」のDVDを見つけたのがきっかけで貸してもらいました。
恥ずかしい話なのですが、ジョージ・ルーカス、スティーブン・スピルバーグ、フランシス・コッポラ、クリント・イーストウッドなど世界的に有名な映画作家に多大な影響を与えている、日本を代表する世界的監督である黒澤明さんの作品を、僕は観たことがなかったのです。

「生きる」は昭和27(1952年)年の作品でモノクロ映画です。
僕が生まれる8年前に公開された映画です。
その頃の日本は、こんな風だったんだというのが画面上から伝わってきて興味深いです。
画面上に、僕の「戦後まもなく」のイメージよりも文化的なものがあったりして驚いています。
物語は、市役所の課長である主人公が、医師の様子から自分は胃ガンだと悟るところから始まります。
当時の医師は、患者のガンが判明した場合に告知しないのが一般的だったようです。
また当時、ガンであることは「死刑宣告」と同じで、現在とは比較できないほどの恐怖の対象だったようです。
話は、そんなところから展開していきます。
作品の内容はもちろん素晴らしいのですが、なぜ黒澤監督が世界中から評価されているのかがよく分かりました。
登場人物たちの心理描写の表現が圧倒的にすごいのです。
話の展開もダイナミックな感じがしました。
現代の映画とタイム感がまったく違うのですが、一つの場面をじっくり見せるあたりでは、観ている僕自身がその場にいるような緊張感に包まれました。
2018年に英国映画協会の「史上最高の外国語映画ベスト100」の72位に選出されているようですが、素人の僕でも時代を超えた名作だと感じました。
この作品は「残された命があと半年だったら、あなたはどう生きるのですか?」と問いかけてきているようです。(黒澤監督のイメージは75日だったそうです)
また作品中に出てくる「我々だっていつポックリ死ぬか…」という台詞にも問いかけられているようです。
哲学者ハイデガーは「存在と時間」の中で「人は死への確実性を否認しているのだ」と言い「死はあらゆる瞬間に可能であることを覆い隠してしまう」と言っています。そして「日常の中」で人は「本来の自分を生きていない」と言います。
「死を隠ぺいして生きている」
「死」と向き合って「生きる」時に本来性としての「存在理由」が明確になってゆくのかもしれません。
禅や武士道の精神は、そういうところからきているのでしょうか。
この世のすべてに「存在理由」はあると言います。
私たち一人ひとりに、それはある。
そして、そう考えると、今世間を騒がせているコロナにも「存在理由」があることになります。
ウィルスの目的は、自分のコピーを造り増殖すること。
それは何のために…。
‥‥‥‥‥‥。
人間が進化するためかもしれません。
人間が身体的にも、精神的にも進化するために必要な存在なのかもしれません。
そして人類全体として考えると、力と能力を合わせて、よりみんなが幸せになる社会システムを構築するためかもしれません。
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