「自信」について考えたこと
- 藤井 浩行
- 2020年1月24日
- 読了時間: 4分
先日、ビジネスコーチをしている友人のKさんと話していて、コーチとしての「自信」についての話になりました。
彼は38歳ですが、経営に関する専門的知識を十分に持ち十分な経験もありながら「コーチとして役立っているのか」に悩んでいるようでした。
僕も6年ほど前に、同じような状態に陥ったことがありました。彼にはその時のことを話しました。

その頃の僕は、ちょうどシナジー・スペースのファシリテーターとして独り立ちし始めた頃でした。
シナジー・スペースのファシリテーターとして「自分が源泉」を伝えると言うことは、僕にとっては、おいそれとできることではない「聖域」そのものでした。
それだけ僕にとっては価値の重いことでした。(それは今も変わりません)
まだまだ修行中の身で「『自分が源泉』を生きていない!」と思えることが多々ある自分が「自分が源泉」を伝えていいのだろうか、と思えたのです。
今思うと、その頃の自分は「完全」になろうとしていたのだと思います。
そして「自信がなくてできない」という状態に陥っていました。
ある日、「コミットメント」を探究する機会がありました。
セッションの中でペアになった人とシェア(分かち合い)をしていて「コミットメントとは、保証がない世界に一歩踏み出すこと」に気づきました。
そして、そのために必要なのはインテグリティ(存在理由)だけでいい、と気づきました。
その頃の僕は「人々が可能性に一歩踏み出すことを力づける」が存在理由でした。(今でもインテグリティの一つです)
だから、その在り方から、精いっぱいやるしかないと気づいたのです。
精いっぱいやってダメなら、それはそれで「仕方のないこと」と思えたのです。
それからしばらくして、また大きな気づきに出会う機会がありました。
「自分が源泉」研修と言う二日間の研修の進行中に、突如初めてのパートをやることになったのです。参加者の前に出てはいったのですが、頭が真っ白になって何を言っていいのか分からなくなりました。
僕の中では1分くらい間があったのではないかと感じました。(あとでアシスタントに訊いたら20秒くらいだったよ、と言っていましたが)
もうパニックです。
ものすごい反応が起こりましたが、その反応は「ある」と認めて、「あっていい」と許可を与えて「完了」しました。(研修の中で伝えているポイントのひとつなので)
そして参加者のみんなに向かって「今、何をやっていいのか分からない状態でここにいます」と伝えたのです。
参加者の皆さんの反応は微妙でした(笑)
その直後、その場にふさわしいアイディアが頭に浮かび(「完了」の効果かもしれませんが)そのあとはスムーズに進みました。
二日間の研修の一日目でしたが、その日の終わりの状況を見ていると、いつもの研修の一日目と変わらずに素晴らしい効果が見て取れました。
その瞬間、気づきが起こりました。
それまでは、ファシリテーターは完全でなくてはいけないと思っていました。
今思うと恥ずかしいことですが、それまでは講師として「正しく教えなければいけない」「正しく教えなければ、参加者にふさわしい学びがない」と思っていたのだと思います。
ところが「ファシリテーターは不完全だとしても、参加者は完全な人」ということに気づいたのです。
参加者は「どんな状況からでも必要なことは学ぶ」ことを目の当たりにしたのです。
「自分が源泉」研修は知識伝達の研修ではなく、人間力を鍛える研修なので「人としての完全性」はすべての参加者がすでに持っていることに気づいたのです。
きっと、それまではどこかで、そのことを信頼していなかったのだと思います。
その後は、参加者の可能性への「信頼」がゆるぎないものになりました。
「私は私のことをする」
フリッツ・パールズの「ゲシュタルトの祈り」の冒頭ですが、その出来事で「参加者の完全性を信頼して、誠実から僕の精一杯をやるだけでいい」と気づいたのです。
今思うと、その後は自分のファシリテーションする場のレベルが少し上がったように思います。
ファシリテーターとしての不完全さを認め、許可し、完了し、インテグリティからやり続けます。
Kさんとの話から、そんなことを思い出しコミットを新たにしました。
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