100年人生セミナーで気づいたこと
- 藤井 浩行
- 2019年11月29日
- 読了時間: 6分
先日、友人の誘いで「LIFE100」というセミナーに参加しました。
主催は中村直弘さんのBe here nowです。
中村さんは、僕の師匠である鈴木博さんの、そのまた師匠です。
“人生100年時代となった現代を、生きがいをもってワクワク生きるための意識と方法”がテーマでした。
とっても素敵なセミナーでした。
セミナーはいくつかの実習があり、参加者同士が実習での気づきを分かち合いながら進んでいきます。
(僕も受け継いでいるスタイルです)

そのセミナーにおいて、とてもうれしいことがありました。
僕とパートナーになった参加者の方から「藤井さんの生き方は、私の理想です」と何度かのシェアの後にフィードバックをもらったからです。
意外でしたが、今の自分はそのように「現れ」ているんだなと、素直に受け取ることができました。
実は、この「受け取ること」ができたこと自体が嬉しいことの一つです。
やっと僕も自己承認できるようになったんだなぁと思ったからです。
それはともあれ、何故その方がそのように感じたかというと、僕の現在の人生に対する満足度がものすごく高いからでした。
ほとんど100%です。
10年前と比較したら、収入は4分の1になっているし、派遣会社“社長”として従業員200人(派遣アルバイト含む)のトップから、今はフリーの一個人だし、そして18年前に奥さんに先立たれ、以来彼女もなく一人身だし、客観的に見たらかなりヤバい状態なのですが、とっても幸せなのです。
その方から「なぜそんなに“満足”を感じることができるんですか?」という質問がありました。
今の僕は“青い空”の美しさに感動して、こんな世界で生かしていただいていることに感謝だし、公園で親子が手をつないでいるのを見ると、その愛情に心が温かくなって、自分にもそんな親がいることが有難いと思うし、自分の体が、思い通りに動いてくれている事にも感謝だし…。
身体には40兆から60兆個の細胞があると言われていますが、その細胞が一糸乱れず活動して、手足を動かしてくれています。
これって、奇跡だと思います。
以前は「当たり前」と思っていたことが「奇跡」と思えるだけでも、こんな幸せなことはありません。
その後「何かきっかけがあったんですか?」という質問がありました。
その時は「座禅を組むようになってからかなぁ」とか「般若心経を知ってからかなぁ」とか言っていたのですが、何となく明確でないままでした。
それが気になって、今日、考えてみました。
そして気づいたのは、二つの要因です。
一つは「インテグリティ(存在理由)」が明確になったこと。
恥ずかしいのですが、僕はついこの間、58歳になって初めて自分の「存在理由」が明確になったように思います。
「世界を平和と愛で満たすことに貢献する」です。
去年までの僕は「世界の平和」とか「愛」とか、自分にそんな力がないのに、その上まったく不完全な人間なのに言葉にするのは偽善だと感じていました。
なので言葉にするのが怖かったのです。
でも、そのことを止めました。そう思っているなら、自分のできる範囲から、そのように生きようと。
それまでの5年間ほどを自分に向き合ってきた結果でした。
ヴィクトール・フランクルという精神療法の先生がいます。
フランクル先生は言います。
「私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない」
「私たちは、生きる意味を問うてはならないのです」と。
何のために生きるのか、なぜ生きるのかを問うてはならないと言うのです。
生きることは、問いかけられること。
だから人生からの問いに答え続ける中で、生きる意味は現れてくる。
生きる意味、存在理由が明らかになる…。
僕はそのように理解しています。
なので5年間ほどは、ずっとその問いと一緒にいました。
そしてある時、そのことを明確に感じました。
「世界を平和と愛で満たすことに貢献する」ことだと。
それからは、その手段として“「自分が源泉」研修”という研修を全国で展開する。
そして後継者を創り、未来につなげていく。
この二つが明確な目標になったのです。
それからはとても充実した日々を過ごしています。
満足度の高いもう一つの要因として考えられるのは「自分を受け入れた」「人と比べなくなった」と言うことです。
これはどちらが因で、とちらが果か分かりません。
きっと相互に影響しあいながら結果として「自己承認」ができるようになったのだと思います。
僕は子供のころから、とにかく成功したいと思っていました。
それは幼少期からの劣等感の裏返しです。
僕にとっての成功は、人並み以上の収入があることと、出世して人の上に立つこと、でした。
そうすれば、周りの人から認めてもらえるし、自分自身も認めてあげられると思ったのです。
だからずっと、周りと比べながら生きてきました。
「勝つか負けるか」の価値観です。
でも一歩上に進むと、まだ上がある。
もう一歩上に進むと、まだまだ上がある。
特にショックだったのは、父が、僕が社長として年商5億円の会社を経営している時でさえ褒めてくれなかったことです。
どこかで「父母のためにがんばってきた」と思っていた僕にとっては、「苦労しながらここまでやっても認めてくれないんだ」という思いでした。(父は僕に、一流企業に就職した僕の弟のことを誇らしげに話すことがよくありました)
今では「父は子どもへの愛情を素直に表現できない人」と理解できているのですが、その時はショックでした。
両親の承認があれば、自分自身を承認できる。
そんな思いが無意識の中にあったのでしょう。これもひとつの依存なのだと思います。
しかし、今では、収入があってもなくても、社会的な地位があってもなくても、自分の力の範囲で精いっぱい世の中に貢献しているという自負があります。
両親に認めてもらう必要もなければ、世間に認められる必要もない。
誰の承認がなくても、自分を承認できるようになったみたいです。
このような考えに至ったのは「生」や「死」に対する認識が変わったことも影響があるかもしれません。
僕の奥さんは2001年に40歳の若さで亡くなりました。癌との2年間の闘病を経ての事でした。
とても誠実で優しい人でした。僕に比べたらはるかに善人でした。
そのことに不条理を感じ納得できなかった僕は、彼女の死を契機に「死」について考えるようになったのです。
「死」を考えるということは「生」を考えるということでもあります。
そしてたどり着いたのは、どんなに“所有”しても、何も持って行けないし、どうも「死」は「終わり」ではないらしい、ということでした。
※僕が特に影響を受けたのは書籍「魂の療法」と「『臨死体験』が教えてくれた宇宙の仕組み」です。
お金を必要以上に所有すること(あればあったに越したことはないしお金持ちを否定しているわけではありません)や社会的地位に対して「あればいいけど、なくてもしょうがない」と人と比べなくなったのです。
「不完全な今のままの自分で良い」と自分を受け入れることができるようになったのです。
ただ、自分の「存在理由」を生きればよいと。
先日の実習パートナーの一言から、こんな気づきを得ました。 この気づきは、僕の存在理由の表現の場である研修にも役立つと思います。 なのでパートナーの方に感謝だし、その方との出会いの場に誘ってくれた友人に感謝だし、主催者の中村さんにも感謝だし。 そうやって考えていくと、僕の周りにある世界全体に感謝です。 満足な毎日です。
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